カンボジアの国旗について気になる人も多いのではないでしょうか。カンボジアに在住している人、カンボジアを訪れる予定の人、カンボジアに興味がある人、国旗は国の大事な象徴の一つなので詳しく知っておきたいですよね。国旗の中央には有名な「あの建物」も描かれています。今回はカンボジアの国旗の由来、国旗の変遷について解説します!
カンボジアの国旗の由来
カンボジアの国旗といえば赤と青が印象的。真ん中には寺院のような建物が描かれています。そんなカンボジアの国旗にはどんな意味が込められているのでしょうか?ここではカンボジアの国旗の由来や意味について解説します。
青色
上と下に描かれている青色は、王室の権威を表しているとされています。王室は、現在、ノロドム家です。ノロドム・シハモニ現国王とその母ノロドム・モニニヤット・シハヌークが主に王室のメンバーとして挙げられます。
王室に関するニュースだと、2018年、王室を批判する投稿をFacebookで行うと逮捕されるという法律が正式に可決されました。既に複数のカンボジア人がこの法律に基づき逮捕されているので、日本人といえども英語で王室に関してFacebookで投稿することは控えた方が無難でしょう。
赤色
赤色は国民の国王に対する忠誠心を表しています。現在の国王はノロドム・シハモニ国王です。ノロドム・シハモニ国王は「独立の父」と称されるノロドム・シハヌーク前国王の息子です。シハヌーク前国王の6番目の妃ノロドム・モニニヤット・シハヌークの間に生まれました。
シハモニ国王はポル・ポト政権時代に父や母とともにプノンペンの王宮に幽閉させられた過去も持ち、様々な苦難を乗り越えてきました。そんな国民のために苦労をしている歴史的背景もあって、父母とともに国民からの評価は高いです。ちなみにシハモニ国王は2018年4月、「仏教の日」を祝うため来日しています。
国王の誕生日である5月14日、またその前後1日は祝日、つまり三連休となっています。このことからもカンボジア王国が国王に対し好意を抱いており、また敬意を払うようにしていることが伺えます。祝日については下記の記事を参考にしてみてください。
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中央の建物
国旗の中央に描かれている建物は、世界遺産にも登録されているアンコール・ワット遺跡です。アンコール・ワットは世界的にも有名な建物で、12世紀に建設されたヒンドゥー教寺院です。場所はカンボジアの西部、シェムリアップ州に位置しています。観光で訪れる際には必ず寄るべきスポットの一つとなっているくらい、有名な建物です。1992年にはユネスコ世界文化遺産に登録されるなど、カンボジア国民にとって由緒ある大事な建築なのです。
カンボジア国旗のデザインは過去9回に渡って変更されていますが、そのほとんどのデザインではアンコールワットが真ん中に使用されています。アンコールワットがいかにカンボジアにとって重要な建物であるかということが国旗からも分かりますね。また、アンコール・ワットがなぜ白色で描かれているかというと、白色は仏教徒を象徴するからだそうです。カンボジア国民の約90%は仏教なのです。
カンボジアの宗教に関してですが、9世紀頃はカンボジアはヒンドゥー教国家でした。その後スリランカやインドから仏教文化が流れ込み、12世紀末頃に独自の仏教文化が築かれました。それ以来、仏教はカンボジアの国家宗教となっています。ただ、カンボジアの仏教はヒンドゥー教と混じり合った独自の仏教であるため、遺跡になどにはヒンドゥー教の神であるナーガ神やガルーダ神の石像が置かれていることが多いです。
カンボジア国旗の変遷
カンボジアの国旗の変遷について詳しく説明します。19世紀半ばから現在の国旗の原型は存在していました。旧フランス領時代の頃です。ただ、その後何度もカンボジアの国旗は変遷しました。なぜかというと、政権が何度も交代していたからです。1948年にフランスから独立を果たすも、カンボジアは1970年代には内戦に突入します。ポル・ポト政権が誕生したり、カンボジアは政治的に大きく混乱しました。それに伴い、国旗も大きく変遷を遂げました。それでは、年代ごとの国旗の写真とその時代背景について説明します。
【1863年〜1948年 旧フランス領時代】
1860年頃からフランスから独立を果たす1948年まではこちらの国旗でした。現在とほとんど同じ国旗です。数百年前に一度似たものが使われていたのですね。現在の国旗と唯一異なる点は、中央のアンコール・ワットの縁取りの色が現在は黒色なのに対し、この当時は赤色な点です。赤がベースで青色で縁取りがなされていて、赤色と青色の比率は1対2対1です。
時代背景を説明すると、19世紀半ば、フランスはインドシナ半島で植民地支配を始めます。現在のベトナム、カンボジア、ラオスを支配下に置きました。植民地化された地域をフランス領インドシナ(仏印)と呼びます。一口に植民地といっても、直轄植民地や保護国、租借地など、支配の仕方に違いがありました。カンボジアは保護国化されています。
当時の国王ノロドム国王はカンボジアに対するフランスの保護国化を認めました。この保護国化を認めたことに対しては様々な意見があり、国民の多くはカンボジアが隣国のベトナムとタイからの侵攻を受け、呑み込まれることをフランスからの「保護」によって防いだと信じています。
また、ノロドム国王は現在のプノンペンにある王宮やシルバーパゴダを建設しています。こう聞くと在住者は少し身近な存在に感じるかもしれませんね。ノロドム国王が保護国化を認めた頃はフランスからの激しい圧迫はありませんでした。ただ、1880年代にフランスが国王に新たな条約締結を迫り、国王は署名せざるを得ず、フランスからの圧迫を受け始めることになります。1884年〜1885年に発生した清仏戦争に勝利したフランスはますます勢いづき、カンボジアは苦しい立場となります。この頃はフランスの傀儡政権も同様でした。
その後、ノロドム国王は1904年にバンコクで亡くなり、後継国王はフランスの思惑通り決定され、シソワット1世が就任しました。
【1942年〜1945年 日本占領時代】
1942年から1945年までの日本による占領時代には例外的にこの国旗が使われていました。現在の国旗とは全く異なったデザインです。日本による占領とは、いわゆる「フランス領インドシナ進駐」のことです。時代背景を簡潔に説明すると、1940年5月、当時各国に侵攻していたドイツのナチス政権がフランスにも侵攻し、フランスは降伏します。政権が交代し、ヴィシー政権へと移行します。そこで日本はヴィシー政権と外交的な協定を結び、合意のもとカンボジアの含まれるフランス領インドシナに進駐しました。一方的な進駐と誤解されることが多いですが、あくまで「合法的な」進駐だったのです。
その後、この日本のフランス領インドシナ支配にアメリカが神経を高ぶらせ、両国が太平洋戦争に突入する背景ともなりました。アメリカが神経を高ぶらせた理由の一つは、フランス領インドシナはゴムの生産が非常に盛んだったためです。数字にすると、世界の約60%のゴムをこの地域で生産していました。アメリカは当時世界にある50%以上のゴムを消費していたため、その輸入ルートが絶たれてしまったことに我慢ならなかったのです。
【1948年〜1970年 カンボジア王国時代】
1948年から1970年まではこの国旗です。「独立の父」と今もカンボジア国民に尊敬されているノロドム・シアヌーク前国王が主導で、フランスから独立を果たした後の時代です。
カンボジアのフランスからの独立を簡潔に説明します。カンボジアは1945年、日本軍による進言により、シアヌーク国王がフランスからの独立を宣言します。ただその後、日本の敗戦に伴い、フランスがカンボジアに戻ってきてカンボジアでの植民地支配を再開します。カンボジアはフランスに抵抗を続け、フランスがベトナムとのインドシナ戦争に苦戦していた1953年に再び独立を宣言します。翌年のインドシナ戦争後の1954年、ジュネーブ会議で国際的にカンボジアの独立が認められました。この歴史的背景があり、今もシアヌーク国王は国民から尊敬されています。
【1970年〜1975年 クメール共和国時代】
1970年、名目上続いていた王政が廃止され、クメール共和国が誕生します。ノロドム・シアヌーク前国王の外遊中にロン・ノルがクーデーターを引き起こし、政権を倒したためです。このロン・ノルのクーデターはシアヌーク国王が反米姿勢を見せていたため、アメリカがロン・ノルにクーデーターを引き起こすようにサポートして行われました。当シアヌーク国王は北京での亡命生活を余儀なくされました。民主カンプチア政権誕生までの5年間、現在の国旗と色使いは近いこの国旗が使用されました。
【1975年〜1979年 民主カンプチア時代】
1975年、民主カンプチアが誕生します。ポル・ポトをリーダーとするカンプチア共産党がプノンペンを制圧したのです。民主カンプチアは親中国路線をとり、国民全員が平等に過ごす共産社会を目指しました。その結果、1979年までの4年間で200万人前後の国民を死に追いやったといわれています。国旗も今までと大きく異なったこれが使われました。民主カンプチアのリーダーたちがシアヌーク国王に「赤いクメール人」とあだ名されたことで、政権は「赤色クメール」と言われていました。そのため、国旗では赤色がメインで使用されました。この国旗はクメールルージュが政権奪取前から使用していたもので、政権樹立後も同じものを使用しました。中央の建物はアンコール・ワットだそうです。現在の国旗のデザインとはかなり異なっていますね。
【1979年〜1989年 民主カンプチア共和国時代】
1979年、カンプチア人民共和国が誕生します。ベトナム軍がフン・セン現首相やヘン・サムリンとともにプノンペンに侵攻し、民主カンプチアは崩壊したのです。カンプチア人民共和国では、ヘン・サムリンが元首を務めました。ヘン・サムリンは現在も存命で、カンボジア人民党(CPP=Cambodian People's Party)の名誉議長です。1989年までポル・ポト政権時代の国旗と中央のデザインだけが異なるこの旗が使用されます。一部の国民は民主カンプチア時代のものと同じ国旗を使用するように提案しましたが、タワーが5本に変えられました。ただ、この国旗は国際社会には認められませんでした。
【1989年〜1991年 カンボジア国時代】
国名が変更された1989年から1991年まではこの国旗が制定されていました。中央に寺院が描かれている点は現在の国旗と共通していますが、色が黄色な点が異なっています。
【1992年〜1993年 カンボジア最高国民評議会時代】
1992年にカンボジア最高国民評議会(SNC)が発足します。当時、初の民主的な総選挙をヘン・サムリン政権下で行うかどうかが争点でした。そこで、選挙実施前の1992年から1993年の間、カンボジア最高国民評議会が発足し、争いが避けられました。シアヌーク前国王を議長にすることを条件に、ヘン・サムリン政権派とその他派閥との合同の構成で政権が成立しました。国旗は国際連合の国旗の色に似た青色で、中央にカンボジアの国土を描いたこれが使われました。
【1993年〜現在 カンボジア王国時代】
1993年、現在のカンボジア王国が誕生します。1993年に国際連合の監視下でカンボジア初の民主選挙が実施されました。この当時の国連議長が明石康氏です。新憲法が発布され、立憲君主制が選択されます。国王にシアヌーク前国王が再即位し、制憲議会は国民議会に移行します。この時、現在に至るまで使用されているこの国旗が制定されました。
プノンペン在住者なら知っておきたいカンボジアの国旗の豆知識
カンボジアの首都プノンペンに在住している方なら知っておきたい、カンボジアの国旗にまつわる豆知識をいくつか紹介します。
リバーサイドにおけるライトアップ
プノンペンで様々なレストランやガールズバーが集まっているリバーサイドにあるゲートのライトアップが国旗の色となっています。この通りはたくさんのバイク、車が通っているので、在住者であれば目にしたことのある人も多いのではないでしょうか。
ナガワールドのライトアップ
カンボジア最大のカジノ施設として知られているナガワールドの夜のライトアップの色もカンボジアの国旗の色が使用されることがあります。時によってはカンボジアの国旗がそのまま描かれることもあります。
まとめ
カンボジアの国旗について解説しました。国旗の由来は歴史的な背景が関係しています。また、政治的な要因もあり国旗は様々な模様に変遷してきました。プノンペンにおける国旗の豆知識も知っとくと面白い見方をできるのではないでしょうか。ぜひ、カンボジアを知り尽くしましょう!
※この記事に記載されている情報は2018年8月のものです。本記事に記載されている情報は予告なしに変更される場合がございますが、ご了承ください。
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